音楽の人類学では、社会と音楽との関係でとても有益な視点、考え方を提起しています。
今回は、トマス・トゥリノの論点である「社会的生としての音楽 Music as Social Life: The Politics of Participation」を紹介します。
出典は野澤 豊一氏の「音楽と身体の人類学的研究に向けて」(2013年)です。
トゥリノは人間の音楽的活動を分類するための新たな概念として、
・「参加型音楽 participatorymusic」
・「上演型音楽 presentational music」
・「ハイファイ音楽 High Fidelity Music」
・「スタジオアート音楽 Studio Audio Art」
の4つに分類しました。
参加型音楽の特質は
・「演奏者」と「聴衆」の明確な区別がないこと。あるのは、実際にミュージッキングに参加している者と潜在的な参加者だけである(Turino, 2008:28)。
・参加型パフォーマンスの場では、人々の関心はエンドプロダクト、すなわち演奏や楽曲の出来や、ダンスパフォーマンスの
出来に向かうのではない。上演型音楽やレコーディング音楽とは異なり、参加型パフォーマンスの出来、乃至し良し悪しは、その場にいる人々の「参加の程度およびその深さ」によって判断される。
ということです。
そして、参加型音楽という概念提起は、音楽パフォーマンスにおける身体的なやりとり interaction の相に着目しているという点でも、特筆すべきです。
なぜなら、(ドラムサークルのような:筆者)ミュージッキングの場を参加型パフォーマンスの場としてとらえるということは、サウンド、身体運動、その他あらゆる非言語的な相互作用が起こる場として把握することに他ならないからです(Turino, 2008:6, 28)。
特に重要なのは、参加型パフォーマンスにおける身体のシンクロ現象です。自身も演奏を行うトゥリノは、演奏者同士がパフォーマンスの最中に「深くつながりあうという特別なフィーリング」に着目して、次のように指摘しています。
“この感覚は、パートナーと私がまったく同じようにリズムを感じられた時、完全にシンクロした時、それぞれの生み出す音を継ぎ目なしにかみ合うように合わせられた時に生み出される。音楽的なサウンドは、私たちがどれくらいうまく演っているかを、直に、瞬時に、そして絶え間なくフィードバックしている――演奏がうまくいっている時には、一緒に演奏している仲間たちとの深い一体感を得ることができる。思うに、演奏がうまくいっている最中では、直接的な相互行為はもちろんのことだが、互いのもつ差異が忘れ去られ、時間の感覚、音楽的な感性、音楽的な慣習や知識、思考と行為のパターン、精神、共通のゴールなどといった、同一性 sameness を強調する活動への没頭が起こるのではないか。
音楽パフォーマンスにおける、互いが凝集して結びつけられたフレームでは、この同一性こそがすべてであり、パフォーマンスが一つのものとしてシンクロした時に、その深いアイデンティティが全体として感じられるのである。
この経験は、人類学者のヴィクター・ターナーがコミュニタスと呼んだところの、階級や地位、年齢、性別、その他すべての個人的な違いが取り去られて、一時的に、誰もが一個の人間として存在することを可能にする儀礼を通じて達成される、集合的な状態に似ている。”(Turino, 2008:18)
参加型パフォーマンスが最高潮の瞬間をむかえると、演奏者や踊り手の「個々の自我があたかも一つに融解するかのように感じられる」のです。
これは他者とのある種の理想的な関係にほかなりませんが、それと同時に、その関係は本来的にはかないものでもあります。
ミュージッキングに加わる者同士は、理想の関係を構築できているかどうか――そしてそれがうまく構築できていない場合も――を、自分たちが生み出すサウンドを通じて、不断に確かめあわなければならないのです(Turino, 2008:19)。
トゥリノは音楽的な活動が、人間社会にとって他にはない重要性をもつことを主張しているのですが、そのもう一段階手前にあるのは「社会的なシンクロ現象(E.ホール)は人間社会にとって一般的な重要性をもつ」という命題です。
音楽やダンスに限らず、パブリックな場で行われる集団による祝祭活動は、社会集団が自らのアイデンティティを、自分自身に、また他集団に対して表現する主要な方法と考えられます。
したがって、人間が根本的に社会的な存在だと定義されるなら、集合的な祝祭活動があらゆる社会で行われていることに何の不思議もありません。
そればかりか、多くの社会における祝祭活動に音楽の演奏とダンスが見られる理由もここにあります。
なぜなら、音楽の演奏やダンスは「もっとも深い感情と性格を公的に表明するからであり 身体の動きや音をたがいにシンクロさせることで、人間は他者との一体感を経験する」からです。
そうした「他者との社会的親密さのサインをきわめて直接的に――身体のレベルで――経験できる」からこそ、ミュージッキングが人類社会に普遍的にみられるのです(Turino, 2008:1-2)。
つまり、共同体を生きる人間たちがお互いに、また自分たち自身に、一体性を表現したり、一体性を確認したりする手段として、音楽の演奏やダンスに代わる手段は無い、と指摘するのです。
人間集団による音楽的な活動の本質を上のように見据えたうえで、トゥリノは「音楽 music」が特定の形式の芸術のことを言うのではなく、「人間であることや人間であるために必要なさまざまことがらを実現する、特殊なタイプの活動に『音楽』というラベルがつけられている」のではないか、と提案しています。
音楽的な活動に参加することや、それを身体のレベルで経験することは、「本来あるべき個人的・社会的な調和を実現するために、このうえなく重要なプロセス」とみることができると指摘しています(Turino, 2008:1)。